百兆円で、何を直せただろう

百兆円。

大きすぎて、暮らしのなかに置き場所のない数字である。

高市首相は国連総会で、日本が途上国・地域へ「総額6,700億ドルを超えるODA」を行ってきたと語った。現在の為替で機械的に円へ置けば、およそ百兆円規模になる。

ただし、これは「この十年で百兆円を海外へ配った」という話ではない。1956年の国連加盟以来、およそ七十年にわたる累計である。ODAには返済不要の無償資金だけでなく、返済される円借款、技術協力なども含まれる。道路、港、病院、人材育成を通じて相手国の生活を支え、日本との交易や信頼を育ててきた側面もある。

だから、この数字をそのまま「外国へ貢いだ税金」と呼ぶのは正確ではない。

けれど、そこで話を終えてもいけない。

国際社会へ差し出した貢献を誇らしく語る政府が、国内で壊れかけた橋、水道管、学校、地域交通、病院、介護の現場へ、同じ熱量で人と予算を向けているか。それを問うことは、排外主義ではない。海外か国内かという奪い合いではなく、政府が人間の安全をどこまで一続きに考えているかを確かめることだからだ。

百兆円を、十年の暮らしへ置いてみる

仮に百兆円を十年間で使うなら、一年あたり十兆円になる。

国土交通省の推計では、道路、河川、下水道、港湾、公営住宅など、所管する社会資本の維持管理・更新費は、2030年代に年4.6〜5.5兆円程度へ増えると見込まれてきた。水道施設だけでも、将来三十年間に単純更新する場合は年約1.8兆円が必要で、過去十年の平均投資額との差は年約5,000億円と試算されている。

一年十兆円という大きさは、こうした数字と並べたとき、初めて足元へ降りてくる。

老朽化した橋を、落ちてから架け直すのではなく、傷みの小さいうちに直す。水道管の更新を先送りせず、地震で一斉に断水する危険を減らす。大雨を下水管だけで受け止めず、田畑、湿地、公園、貯留施設を含めて町に水の逃げ道をつくる。学校の暑さ、雨漏り、トイレ、避難所としての電源を整える。地域の病院、介護、バスを、採算が悪いという一言で消さない。

百兆円で「全部できた」とは言えない。建設には資材も技術者も時間も要る。予算を急に増やせば、人手不足と価格上昇を招くこともある。お金だけで解けない制度の詰まりもある。

それでも、できない理由を並べる前に、何を優先してきたのかは見える。

PUT THE NUMBER BACK INTO LIFE / 数字を暮らしへ戻す

約70年演説で示されたODAの累計期間。単年度の支出ではない。約100兆円6,700億ドルを現在の為替で概算した比較用の規模。年10兆円仮に10年間へ均した場合の思考実験。実際の予算配分ではない。

道路は、舗装だけではない

道路の話をすると、すぐに「公共事業」「無駄な箱物」という言葉が出る。

だが、暮らしを支える道路は、立派な高速道路だけではない。子どもが歩く白線、車椅子が越えられる段差、豪雨で水が集まる側溝、救急車が通る橋、山間部の集落へ食料を運ぶ道。除雪する人、点検する人、崩れた法面を直す人までが、道路という仕組みの一部である。

新しいものを建てる政治は写真になりやすい。古いものを壊れないように手入れする政治は、成果が「何も起きなかった」という形でしか現れない。

けれど、本当に成熟した社会の豊かさは、完成式典の数より、落ちなかった橋、濁らなかった水、止まらなかったバス、避難できた夜に表れる。

THE POLITICS OF MAINTENANCE / 手入れする政治

BRIDGE落ちなかった橋WATER濁らなかった水TRANSIT止まらなかったバスSHELTER避難できた夜

善意の看板の裏で、金はどこへ戻るのか

ODAを語るとき、もう一つ避けて通れないことがある。不正と腐敗である。

援助事業は金額が大きく、政府間で決まり、インフラ建設を商社、建設会社、コンサルタントが受注する。契約の現場には、相手国政府の許認可、入札、政治家、官僚、企業が集まる。透明性が弱ければ、善意の名を掲げた巨大な資金は、賄賂、談合、不当なリベートの種にもなりうる。

これは想像だけの話ではない。2008年には、ベトナムの円借款によるサイゴン東西ハイウェイ建設計画をめぐり、日本企業PCIの元社長らが外国公務員への贈賄で起訴された。日本交通技術のODA事業でも不正事案が発覚し、日本とベトナム、ウズベキスタンは再発防止策を設けた。外務省とJICA自身が通報窓口、調達監査、企業への排除措置を整えているのは、危険が抽象論ではなかったからである。

ただし、確認された外国公務員への贈賄と、「ODAの金が日本の政治家へキックバックされた」という主張は同じではない。後者を個別の証拠なしに断定すれば、正しい批判まで弱くなる。

問うべきなのは、もっと具体的な資金の経路だ。

誰が案件を決めたのか。どの企業が、どの条件で受注したのか。随意契約か、競争入札か。政治献金をした企業と受注企業は重なるか。事業費はいくら増えたか。完成後、住民は本当に使えているか。不正が起きたとき、社名と処分は公開されたか。

「国際貢献」という言葉は、会計を見なくてよい免罪符ではない。むしろ善意を掲げる事業ほど、誰の懐へ何が戻ったかまで追跡できなければならない。

そして、もし政治家への還流を示す証拠が見つかれば、そのときは遠慮なく名前と経路を書く。疑いを大声にするより、金の流れを最後まで辿る方が、権力にはずっと痛い。

海外支援と国内生活を、敵同士にしない

ここで最も危険なのは、「外国人へ使う金があるなら日本人へ」という方向へ話を縮めることだ。

感染症、戦争、気候災害、食料、エネルギー、サプライチェーンは国境で止まらない。他国の水道、保健、教育、防災を支えることは、人道であると同時に、日本の生活を安定させる仕事でもある。国際協力をやめれば、その分が自動的に国内の福祉へ回るわけでもない。

問うべきなのは、弱い者同士に予算を奪い合わせる政治である。

海外の貧困を支えることと、国内の困窮を支えること。島国の防災へ協力することと、日本の老朽水道を更新すること。どちらも、人が安全に生きるための公共である。

政府が世界へ「人間の安全保障」を語るなら、それは国内でも同じでなければならない。世界に差し出す理念が、足元の住民には適用されないとき、外交は美しいショーになってしまう。

数字を、暮らしへ翻訳する

「6,700億ドルの貢献」と聞いたら、すごい、あるいは無駄だ、と即答する前に内訳を見る。

何年間の数字か。贈与か融資か。誰へ届き、何をつくり、返済はどうなったか。日本企業の受注や資源調達とどう結びついたか。同じ期間、国内のどの設備が更新を待っていたか。

そして数字を、自分の町へ置いてみる。

雨が降るたび冠水する交差点。錆の浮いた歩道橋。減便されたバス。夏に体育館へ集められる避難者。蛇口の向こうで、交換の順番を待つ管。

予算は抽象的な国力ではない。誰の明日を壊れにくくするかという、社会の意思である。

百兆円という巨大な数字から、最後に残したい問いは一つだ。

世界へ貢献する国であることと、この国で暮らす人を守ることを、なぜ私たちは別々の財布の物語として聞かされるのだろう。

A QUESTION TO CARRY / 持ち帰る問い予算は、誰の明日を壊れにくくしているだろう。

MICHIKUSA / NEXT WINDOWS

SOURCE DESK

「約百兆円」は演説中の6,700億ドルを現在の為替水準で概算した比較用の規模であり、実際の各年度の円支出額を合計した値ではない。全額が税による無償供与でもなく、国内へそのまま振り替えられる単一の予算でもない。公開時には為替、ODA実績、インフラ費用の最新値を再確認する。