それ、同盟ですか。不健全な関係ですか。

「私たち、特別な関係だよね」

何度も確認しなければならない関係は、たいてい少し不安である。

相手の名前を親しげに呼ぶ。笑顔を褒める。会ってもらえたことを成果として語る。冷たく扱われても理由を自分の側に探し、相手が別の誰かへ赤絨毯を敷けば、もっと役に立つ自分になろうとする。

日米関係を一組の人間関係に重ねて眺めると、笑っては済ませられない構図が見えてくる。

もちろん国家間の同盟と、家庭や職場で起きるモラル・ハラスメントは同じではない。基地、核抑止、貿易、法律、国民の安全が絡む外交を、恋愛相談の言葉だけで説明することはできない。

それでも比喩には、専門用語の陰に隠れた関係の癖を見せる力がある。

相手の機嫌が、こちらの政策になる

不均衡な関係では、弱い側が相手の機嫌を先回りして読む。

怒らせないように言葉を選ぶ。頼まれる前に差し出す。拒否すれば関係そのものを失う気がして、要求の妥当性より相手の反応を考える。

国家間では、これを「同盟管理」「現実的外交」と呼ぶことがある。

米国の軍事力に安全保障を依存し、基軸通貨ドルと米国市場、技術基盤へ深くつながる日本が、米国の意向を無視できないのは事実である。だが、依存があることと、自分の判断を持たないことは同じではない。

ICCの赤根智子所長が米国の制裁対象になった際、日本政府はICCを支持する姿勢を示す一方、公の場で制裁撤回を強く求める表現は避けた。国際法を守るという日本自身の原則と、同盟管理への配慮が緊張した場面だった。

相手の行動が自分の原則に反しても、「関係が大切だから」と沈黙する。人間関係に置き換えれば、一度立ち止まって考えたい場面である。

「守ってあげている」という請求書

不健全な関係では、過去の恩が永遠の請求書になる。

誰のおかげで安全なのか。誰のおかげで豊かになったのか。誰がいなければ困るのか。

日本は敗戦後、米国の占領を経て、日米安全保障体制の中で経済成長を遂げた。米軍の抑止力が日本の安全保障に占めてきた役割も小さくない。

しかし、守られた歴史があるからといって、現在のあらゆる要求に従う義務が生まれるわけではない。基地負担、地位協定、武器購入、通商交渉、対中政策。何が日本で暮らす人々の安全に必要で、何が米国の利益を日本側へ移しているのかは、案件ごとに検証されなければならない。

「守っているのだから言うことを聞け」という関係では、安全保障は共同作業ではなく支配の道具になる。

冷たくされるほど、忠誠を証明する

見捨てられる不安が強い関係では、冷たく扱われても、距離を取るより、もっと尽くそうとしてしまう。

高市首相の米国到着時の閑散とした光景と、習近平国家主席へ用意された赤絨毯、空港での出迎え、公式晩餐会。それぞれ訪問の格式が違うため、映像だけで同盟の価値は測れない。

しかし、その対照を見た日本側が「もっと米国に評価されなければ」と反応するなら、問うべき方向が逆である。

必要なのは、米国から愛される方法ではない。日本がどの原則を守り、何を断り、何を提案できる国であるかだ。

米中はAI、半導体、台湾、軍事、貿易をめぐる競争相手でありながら、笑顔で握手し、盛大な儀礼を行う。重要な相手とは、好き嫌いを超えて交渉する。従順な相手より、断る能力を持つ相手の方が、交渉相手として重く扱われることさえある。

国家の「見捨てられ不安」

俗に「メンヘラ」という言葉を使い、人の不安定さや執着を笑うことがある。しかし、精神的な苦しみを人格の欠陥として扱う言葉は慎重に使いたい。

ここで見たいのは病名ではなく、関係の構造である。

見捨てられることを恐れるあまり、自分の望みが分からなくなる。相手の小さな好意を過大評価し、冷遇を自分の努力不足として受け取る。関係を保つこと自体が目的になり、何のための関係だったかを忘れる。

国家にも似た心理が生まれる。

「米国に見放されたら日本は終わる」という恐怖が議論の出発点になれば、同盟をよりよくする提案さえ、裏切りに見えてしまう。基地負担を問う人、外交の自立を求める人、米国の戦争へ反対する人が、「安全保障を分かっていない」と退けられる。

しかし、自立とは一人で生きることではない。関係の中で、自分の判断と境界線を持つことである。

対等とは、同じ力を持つことではない

日本と米国の国力は同じではない。対等な関係とは、すべてを半分ずつにすることでも、軍事力を同じにすることでもない。

違うと言えること。情報を共有されること。決定の理由を説明されること。負担が一部の地域へ押しつけられないこと。相手の違反にも同じ原則を向けること。関係を続けながらも、拒否できること。

人間関係でも国家関係でも、境界線は別れの予告ではない。関係を壊さずに続けるための輪郭である。

日本が必要としているのは、米国との絶縁でも、別の大国への乗り換えでもない。

「誰についていくか」ではなく、「何を守るために、誰とどう協力するか」を自分たちで決めることだ。

愛される国より、判断できる国へ

同盟は、恋愛ではない。

それでも国家を動かすのは人間であり、承認されたい欲望、見捨てられる恐怖、強い者の隣にいる安心は、外交の言葉の下にも潜んでいる。

だから、ときには専門用語を外して、関係そのものを見たほうがいい。

こちらは何を恐れているのか。何を差し出したのか。何を言えなくなったのか。相手は、こちらの拒否を尊重するのか。

「私たち、特別だよね」と繰り返す代わりに聞いてみる。

この関係によって、誰の暮らしが安全になったのか。

誰が負担を引き受けているのか。

そして私たちは、この関係の中で、自分の声をまだ持っているだろうか。

EDITORIAL NOTE

本稿は「モラハラ」「メンヘラ」を診断名として国家や個人へ貼るものではない。実際のハラスメント被害や精神的不調を軽く扱わず、権力差、依存、境界線、見捨てられ不安という関係の構造を考える補助線として用いる。

THE QUESTION TO CARRY守られることと、判断を手放すことは、いつ同じになったのだろう。

MICHIKUSA / NEXT WINDOWS