古い木の味わい深い色。背もたれの曲線。座面は少し硬い。でも、きっと姿勢にはよい硬さなのだろう。値札は、見なかったことにしたい数字だった。

一度、店を出る。

昼食を食べながら考える。椅子は毎日使う。十年使えば、一日あたりにすれば安い。よい椅子は腰を守る。大量生産品を何度も買い替えるより、環境にもよい。これは買い物ではなく、暮らしへの投資である。

戻って、買う。

家へ届いた椅子は、店で見たときより少し大きい。部屋に合わない気もする。座ると、やはり硬い。

そこで人間は、不思議な能力を発揮する。

「この硬さがいいのよ」

昨日より椅子を褒め始める。

買う前より、買ったあとで美しくなる椅子がある。

心は、矛盾したまま座っていたくない

私は賢く買い物をする人間である。

私は、部屋に合わない高価な椅子を買った。

この二つを同時に考えると、どうにも居心地が悪い。

認知的不協和とは、信念や態度と、自分の行動とのあいだに矛盾が生じたときの居心地の悪さ、そして、その違和感を小さくしようとする心の動きを説明する理論である。

椅子を返品し、「高かったけれど、失敗だった」と認める。それも矛盾を減らす方法のひとつである。

けれど、人は別の方法も使う。

椅子の長所を集める。欠点を大したことではないと言い換える。安い椅子の悪い評判を探す。「本物が分かる人には分かる」と考える。

現実を変えるより、自分のなかの説明を変えるほうが楽なことがある。

一ドルで嘘をついた人たち

認知的不協和研究の有名な実験では、退屈な作業をした参加者が、次の参加者に「面白かった」と伝えるよう頼まれた。報酬が一ドルだった人と、二十ドルだった人がいた。

報酬が大きければ、「お金のために言った」と自分に説明できる。ところが報酬が小さいと、嘘をついた理由を報酬だけでは説明しにくい。そこで一部の参加者は、作業そのものを実際より面白かったと評価するようになった。

ただし、この一つの実験で人間の心がすべて説明できるわけではない。認知的不協和研究には複数の理論的な説明があり、実験方法や測定の曖昧さも議論されている。

大切なのは、「人は必ず嘘を信じ込む」という教訓ではない。

自分で選んだという感覚が強く、後戻りしにくく、行動と自己像が大きく食い違うほど、人は説明を作り替えたくなるということだ。

高かったのは、椅子だけではない

選挙で一票を入れた。

家族と議論した。友人と距離ができた。SNSで何度も擁護した。集会へ行った。寄付をした。周囲へ「あの人こそ必要だ」と話した。

その政治家が、約束と違うことを始める。

ここで政策だけを見直せるなら、話は簡単である。

けれど、認めなければならない損失は、一票だけではない。

自分は人を見る目があるという自負。費やした時間。誰かへ言った強い言葉。仲間の中で得た居場所。自分が正しい側にいるという安心。

高かったのは、椅子ではなく、自分の物語だった。

そのため、反する事実が増えるほど、かえって信念が強くなることさえある。「報道が偏っている」「失敗ではなく深い戦略だ」「他の政治家ならもっと悪かった」。一つの矛盾を守るために、別の説明が次々と必要になる。

自己正当化は、愚かな人だけの癖ではない

認知的不協和を「支持者は洗脳されている」と相手を笑う道具にすると、最も重要な点を失う。

自己正当化は、知識の少ない人だけがするのではない。

知識が多ければ、自分の立場を守る理由も上手につくれる。文章が得意なら、矛盾を美しい物語へ編集できる。データに詳しければ、都合のよい期間や指標を選べる。

頭のよさは、誤りを訂正する力にも、誤りをもっともらしく守る力にもなる。

そして、これは右派だけ、左派だけの病気でもない。自分たちの陣営の不正には事情があったと考え、相手側の不正には本性が表れたと考える。同じ行動を、所属によって別の言葉で呼ぶ。

人は思想を守っているつもりで、「その思想を選んだ自分」を守っていることがある。

SNSには、過去の自分が並んでいる

昔なら、考えを変えても、昨日の発言は周囲の記憶にぼんやり残るだけだった。

いまは違う。

投稿、動画、いいね、共有、プロフィール。過去の自分が、日付つきでそこに並んでいる。意見を変えると、知らない人が古い発言を持ってくる。「前に言っていたことと違う」

もちろん、権力者の説明責任には過去との整合性が必要である。

だが、市民まで一生、最初の意見に忠実であることを要求されれば、考え直すことが、敗北になってしまう。

変わることが恥なら、人は誤りを守る。

訂正を許さない情報空間は、正しさを増やすのではなく、自己正当化を強くする。

国家にも、買ってしまった椅子がある

巨大な公共事業、高価な兵器、失敗した制度、撤退できない戦争。

すでに多くを費やしたという事実は、本来、今後の判断と分けるべきである。それでも「ここまで投じたのだから」と、さらに資金と人命を投入する。

過去の犠牲を無駄にしたくない気持ちは強い。

しかし、誤りを認めないために犠牲を増やせば、過去は救われない。代償がさらに大きくなるだけである。

組織では、計画を始めた人と中止を判断する人が同じだと、撤退が難しくなる。政策への批判が担当者の人格否定として受け取られると、計画を修正することが、自分自身の敗北のように感じられる。

だからよい制度は、人の謙虚さだけに頼らない。独立した検証、期限、見直し条項、異論を述べる役割や撤退の基準を、あらかじめ用意しておく。

心が自分を守ろうとするなら、制度は事実を守る仕組みを持たなければならない。

矛盾は、敵ではない

不協和は不快である。

けれど、その不快さは故障ではない。「信じていることと、していることがずれている」と知らせる、小さな警報でもある。

問題は警報が鳴ることではなく、音を止めるために火災報知器を外してしまうことだ。

矛盾を感じたとき、すぐに相手の欠点を探さない。自分を罰しない。少しのあいだ、二つの事実をそのまま並べてみる。

私は善意で選んだ。

そして、結果はよくなかった。

私はあの人を支持した。

そして、この政策には反対する。

過去の自分が愚かだったからではなく、そのとき持っていた情報と願いで選んだ。いま別の情報を得たから、選び直す。

自分を守るいちばんよい方法は、間違えない人間を演じることではない。「間違えたら、選び直せる人間だ」ということまで、自分の物語に含めることである。

椅子から立つ

あの椅子は、結局どうするのだろう。

座布団を置けば使えるかもしれない。別の部屋なら似合うかもしれない。誰かに譲ってもいい。返品してもいい。高かったけれど失敗だったと笑う。

選択肢はいくつもある。

一番つらいのは、座り心地の悪い椅子に座り続け、腰を痛めながら、訪れる人全員へその素晴らしさを説明し続けることだ。

買ったものを手放しても、それを選んだ自分まで否定されるわけではない。

支持を変えても、昨日までの人生が無意味になるわけではない。

私たちは、過去の選択だけでできているわけではない。

椅子から立てる。

そして、立って初めて見える眺めがある。

THE QUESTION TO CARRY間違いを認めることは、過去の自分を裏切ることだろうか。

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SOURCE DESK / 公開前確認

認知的不協和を、特定の思想や支持者を病理化する説明として使わない。古典実験は後続研究と方法論上の論争を併記する。政治的判断では心理要因だけでなく、情報格差、利害、制度、所属集団、メディア環境を残す。