船をつなぐ綱は、船を留めるためだけにあるのか

港に停められた船は、岸壁へ綱でつながれている。

係留索は、船首から、船尾から、ときには斜めに伸びている。潮が満ち、風が向きを変え、船体が揺れても、岸へぶつからず、沖へ流されないように張られている。

綱は、ぴんと固く張ればよいわけではない。強すぎれば船体や係船柱へ大きな力がかかる。緩すぎれば船は動きすぎる。波と潮を受けながら、必要な動きを許しながら、船を戻せる張り具合がいる。

船をつなぐとは、船を動けなくすることではない。

次に海へ出られる状態で、守ることである。

安全だから、離れられる

心理学者ジョン・ボウルビィが築いた愛着理論では、親しい養育者は子どもにとって「安全基地」になる。

安全基地という言葉から、いつも抱き締めて離さない姿を想像するかもしれない。けれど、その役割には、離れていけるよう支えることも含まれる。

戻れる場所があるから、子どもは少し遠くまで冒険できる。転んだり、怖いものに出会ったりしたら戻る。安心を取り戻すと、また離れていく。

よい愛着は、距離をなくすのではない。距離へ耐えられる関係をつくる。

守ることと、留めることは違う。

戦後日本が結んだ太い綱

1945年、日本は敗戦した。占領を経て、1951年に旧日米安全保障条約へ署名し、1960年に現在の日米安全保障条約が発効した。

冷戦下で、日本は米国の軍事力を安全保障の大きな基盤としながら、経済復興と成長へ資源を集中した。朝鮮戦争、東西対立、核兵器、ソ連と中国。戦後日本にとって米国との綱は、漂流を防ぐ現実的な選択でもあった。

綱につながれていたからこそ、日本は別の仕事へ力を使えた。その面を無視して「すべて従属だった」と言えば、歴史を単純にしすぎてしまう。

しかし、七十年以上が過ぎても綱の長さや結び方を点検できないなら、安全基地は別のものへ変わってしまう。

米国の軍事行動や国際機関への対応に対して、日本が明確に異議を唱えられない。防衛装備、基地、情報、外交判断まで、「米国との関係を損ねないこと」が最初の条件になる。

戻れる港があるから海へ出られるのではなく、港から離れること自体が恐ろしくなる。

そのとき綱は、安全のための係留索から、航路を決める鎖へ近づく。

綱の重さを引き受けた島

日米同盟を二国間の一本の線として描くだけでは、見えなくなる場所がある。

沖縄である。

日本の国土面積の約0.6%にすぎない沖縄県へ、在日米軍専用施設面積の大部分が集中してきた。日米安全保障という国全体の選択を支える土地、騒音、事故の危険、事件への恐怖は、均等に分けられていない。

船と岸をつなぐ綱の力は、係船柱へ集まる。

国家が「抑止力」と呼ぶ安全を保つため、どの土地がその張力を受けているのか。同盟が必要か不要かという二択の前に、この不均衡を見なければならない。

本土に住む人が「米軍がいるから安心」と感じるとき、その安心の物理的な装置は、誰かの窓の外、通学路の上、畑の隣に置かれている。

安全基地は、一部の人だけを危険へ近づける場所でよいのだろうか。
そもそも、「本土」と呼ぶ意識の根源も同時に考えねばならない。

愛着理論で国家を診断しない

ここで注意したい。

日本という国に、幼児のような心があるわけではない。政府、官僚、企業、自治体、市民は同じ意思を持たない。日米関係を「不安型愛着」と診断すれば、条約、軍事力、経済、地理、植民地主義といった現実を、性格の話へ小さくしてしまう。

愛着理論は答えではなく、関係を見る一枚のレンズである。

そのレンズを通すと、安全保障の議論で見落とされやすい問いが現れる。

この関係は、相手が自分で判断できる力を育てているか。距離を取っても壊れないか。NOと言ったあとも続くか。相手の別の関係を認められるか。守ることを理由に、行動を管理していないか。

心理学というレンズは、制度の分析だけでは拾いにくい「関係の質」を見せてくれる。

見捨てられる恐怖は、誰が育てるのか

「米国に見放されたら、日本は守れない」

この言葉には、現実的な安全保障上の懸念がある。核抑止、情報収集、装備、兵站。すぐに一国だけですべてを担えるわけではない。

だが、恐怖が大きいほど、選択肢を育てる議論は難しくなる。

近隣国との外交、国際機関、軍備管理、危機回避の通信、エネルギーと食料の安全保障、サイバー防御、市民保護。安全は一つの太い綱だけでつくられるものではない。細さも方向も異なる多くのつながりが、船を安定させる。

一本が切れたら沈む設計なら、必要なのはその一本だけを頼り続けることではなく、全体の設計を変えることだ。

そして「見捨てられる恐怖」を利用すれば、政府は高額な装備も、基地負担も、説明の不足も、「今は仕方がない」で通しやすくなる。

恐怖は感情であると同時に、予算を動かす政治資源でもある。

安全保障という言葉を、暮らしへ戻す

安全保障と聞くと、ミサイル、戦闘機、首脳会談を思う。

けれど船が航海を続けるには、軍艦だけでは足りない。

水が出ること。橋が落ちないこと。病院が動くこと。食料が届くこと。停電しても通信できること。避難した人が住まいへ戻れること。異論を言った人が敵と呼ばれないこと。

国を守るとは、領土の線だけを守ることではない。その中で営まれている暮らしを守ることだ。

同盟のための支出が増える一方で、水道、道路、医療、介護、教育が痩せていくなら、何から何を守っているのかを尋ねなければならない。

外からの攻撃に耐えても、内側の生活が崩れれば、船は航海できない。

綱を切るのではなく、結び直す

自立という言葉は、ときどき孤立と混同される。

誰にも頼らず、すべての武器を自前で持ち、外国を遠ざける。けれど、それはHOLOSが考える自立ではない。

人も国も、関係の外では生きられない。

必要なのは綱を切ることではなく、自分たちで結び方を選べることだ。一本だけに全重量を預けず、複数の関係を持つ。張力が一部の土地へ集中しないよう負担を見直す。傷んだ綱を点検する。必要なら緩める。相手にもこちらの揺れを伝える。

そして海へ出る。

安全基地の価値は、そこから一歩も動かなかった時間では測れない。どれほど遠くまで探索し、自分で判断し、戻り、また出ていけるようになったかで分かる。

港の船を眺めるとき、次は綱を見てみたい。

何本あるだろう。どこへ結ばれているだろう。どの一本に、強すぎる力がかかっているだろう。

そして自分の関係にも、小さく問いを戻す。

私を守ってくれるものは、私が遠くへ行くことも許してくれているだろうか。

THE QUESTION TO CARRYこの関係は、離れても戻れる安全を育てているだろうか。

MICHIKUSA / NEXT WINDOWS

SOURCE DESK / 公開前確認

沖縄への施設集中率は、比較する施設区分と基準日により数値が異なるため、公開時に最新の政府・沖縄県資料を併記する。愛着理論は国家を臨床診断するために使用せず、関係の構造を考える補助線として扱う。